師の叡智について

 ユダヤ教には「タルムード」という聖典が存在します。これは元々、口伝が原則でしたが二世紀ごろに内容の散逸を恐れたユダヤ人の律法学者が文書にしたもののようです。この「タルムード」を読んで勉強する人は必ず、とある姿勢のようなものを強制されます。それは「タルムードの内ではこの世のすべてが予め思考されているというということを受け入れること」です。
 
 私たちは真にすぐれた思想というのは、すべての思想(産業社会や近代テクノロジーさえも)が思考されている思想であるという理解から出発する。 /『困難な自由』 エマニュエル・レヴィナス著 内田樹訳 国文社
 
 現実的に考えてこの世のすべての問題が予め考えられている書物など存在するでしょうか。
 ここですべてが思考されているというのは「事実」ではなく「物語」です。本当にそうなのではなく、「師に就いて学ぶならその前提で学びなさい」ということです。ここでいう「師」というのは具体的な人物でなくともかまいません(勿論、具体的な人物でもいいです)。「書物」でも「映画」でも「音楽」でもなんでもかまわないのです。本当は全てが思考されているわけではないのでしょうが、そこに全てが備わっていると信じて貪欲に学ぼうとする人は、まさに「一から十を知る」ことになるでしょう。
 伸進舎に通われる皆さんには無限の可能性があります。無限とは、無限を信じた人にのみ訪れます。フランスの哲学者であるレヴィナスが本当にこんなことを言いたかったのかはよくわかりませんが、きっと目の前の一つのことから一つのことしか学び取れない人よりも、なるべく多くを学ぼうと出来る人の方が強く成長できることでしょう。
 私も斯くありたいものです。書物の正しい読み方は、誤読なのかもしれない、と私は思います。
 
 
古後

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